lizminim

忘れていても思い出せるように。

ツナポテトサラダ。

 研修が終わり、課に配属されて一ヵ月。一ヵ月も生き延びることができて、いささかホッとしている。今年就職のために福岡から上京し、一人暮らし7年目に突入した。6年も一人で暮らしていると手の抜き方を覚えるようになり、大学時代の6年間の下宿生活は、三食コンビニ飯や昼夜逆転等、「ていねいな暮らし」とはまるで無縁の生活を送っていた。  さて、6年間の学生時代を終えた私は、休息の取り方を完全に忘れてしまっていたことに気がついた。社会人になったばかりの私は、かつて土日休日に何をしていたのかさっぱり思い出せなかった。かつてというのが一体いつを指すのかはわからないが、よく考えてみると土日休日の使い方をよくわかっていない可能性があると思った。YoutubeTwitterをいじりながらベッドの上で惰眠を貪っていると平日がやってくる。知らないうちに自分の中の何かが壊れ続けていると4月末に気がついた。したいこと、好きなものがわからない。何が好きで何が楽しみで生きているのだろうか。かつて、中学生、高校生だった自分は、もっとこう何か好きなモノがあって、こだわりがあって、希望やそんな類のものを持っていたような気がする。どうすれば好きなモノを見つけられるのか。どうすればこだわりを持てるのか。どうすれば夢や希望を持てるのか。そもそも夢や希望ってなんだ。将来の夢か。それとも本当に自分がどうなりたいかって話なのか。いやでもたとえそれになりたいと思ったとしても、そうなれるわけがない。そんな簡単なものじゃないのは24年も生きていると理解できる。だったら僕にどうしろっていうのか。どうしたらいいんだ。どうすればいいんだ。

 そんな時、私に一つの天啓が降りてきた。

 まずは暮らし。暮らしを始めよう。

 私に必要なのは執着やこだわりのようなものである。俺にはどうにも継続というものが足りない。じっと待つ。これだ。俺にはこれが足りない。日々の生活を懸命に営む。何かに縋るように必死に必死に執着をする。自分を見つけるにはそれしかない。雰囲気で生きてるだけじゃ自分が溶けてなくなってしまう。誰だかわからないくなる。自分が自分であるために、自分が自分を認識するために、何かをしなければならない。

 だからポテトサラダ。まずはじゃがいもを適当に茹でる。この時皮は剥いて、半分に切って茹でると茹で時間が短くなる。横着して鍋に突っ込んだじゃがいもを強引に包丁で割ってしまい熱湯が前腕に跳ねた。ボウルにツナ缶を一缶ひっくり返す。汁気はできる限り取り除いておく。じゃがいもに箸を刺し、煮えたか確認をする。ガジガジな方がうまい気がしたので、少しばかり芯が残ったじゃがいもを先のボウルに放り込む。あとはマヨを大量にかける。健康なんて知ったこっちゃない。毒も喰らう栄養も喰らう。両方を共に美味いと感じ、血肉に変える度量こそが食には肝心だとかの範馬勇次郎も言っていた。なので胡椒も容赦なく。

 ツナポテトサラダの完成。

遊んでないで仕事をしろ俺。